2014年9月13日土曜日

未来への指針

このところフェイスブックでかつての教え子から友達申請されることが多くなってきた。彼らの投稿は「彼氏とデートです」とか「結婚しました!」とか「子どもが生まれました!」とか幸せな報告が多いのも特徴だ。

僕は今年度、教員生活23年目を迎えるけど、振り出しは小学校だったから最初に受け持った5年生はいまは33歳ぐらい。それからついこの春に送り出した高1の16歳まで、教え子の年齢を数えてみると自分も結構年を取ったなと感じてしまう。同時に、当時は辛かった出来事もそのほとんどが思い出として美化されてしまうから不思議なものだ。

今年の夏に、振り出しの小学校の小さなOB会に招かれて19年ぶりに行ってきた。空知の北の果てにある小さな町の小学校はつい最近新築したばかりで、現代的で開放的なつくりとなっていて驚いた。僕が勤務していた頃は校舎内に畑があって(プランターではない!)、天窓に向かってひまわりが咲いていたり、池があって(水槽ではない!)、鯉が何匹も悠々と泳いでいたりと、それはそれで斬新的なつくりではあった。それに、冬は冬で毎日2回は雪かきしないと家が埋もれてしまうような豪雪地帯でもあった。

そんななかで3年間小学校教師として勤めてきた経験が、その後の僕に少なからずいい影響を及ぼしている。ちょっと生意気な6年生と、何色にも染まっていない1年生の両方を担任できたことが、それから先中学校教師を続けていく上での指針になっているというわけだ。そして、新卒の時にお世話になった同僚の先生をはじめ、その後田舎から都会へと転勤する先々で、僕は必ず「なんか温かいなぁ」「自分が年を取ったらこんな先生もいいなぁ」と思える同僚教師に数多く巡りあえたことも、自分の成長にとってはとても大きいと言える。

翻って、ふと思うことがある。今の自分は若い教師にそうした思いを抱かせるような存在となり得ているのだろうか。あるいは、目の前の子どもたちが何年か後に、「中学校時代はとっても楽しかった」と言えるような毎日を僕は果たして提供できているのだろうか、と。結論としては、胸を張れるほどのことを、僕は何もしていないということだけは言える。

ただ、こうした今の自分を振り返るような僕の発信に対し、「いいね!」や「コメント」を添えてくれる教え子たちの存在は、これから先の僕の教職人生に新たな指針を与えてくれるような気がしているのもまた正直な気もちである。
(山下 幸)

2014年9月3日水曜日

休み時間の職員室

今年、担任を外れました。
昨年までは休み時間は必ず子どもと一緒にいたので、寂しい毎日です。
そんなある日の中休み、職員室での教頭との会話です。

山本:「教頭先生、たいへんです。」
教頭:「何かあったかい?」
山本:「もう中休みに入っているのに、先生方が戻ってきません!」
教頭:「あぁ~、ホントだね。誰もいないねぇ。」
山本:「職員室、避けられてるんですかね(苦笑)」
教頭:「最近、先生たち、休み時間に子どもと遊んだり、勉強みたりしてる人、多いみたいだよ。」



山本:「そうだったんですね。」(ホッ
教頭:「子どもの素の姿や人間関係を観察するのに休み時間は大事だよね。」
山本:「その通りです。」
教頭:「休み時間に子どもと先生が楽しく遊んだり、おしゃべりしたりしたりする中で、子どもたちとの信頼関係って深められるものだよね。」
山本:「いつも一緒にいると話しやすい人間関係が作れますものね。」
教頭:「それに、教師が間に入ることで子どもたち同士のつながりを深めることもできるんだよね。そんなことあったでしょ?」
山本:「遊びの中でこそ伝えられることってたくさんありますよね。」
教頭:「ルールや我慢の大事さなんて、教師がガキ大将になって伝えればいいんだよ。『○○そこズルするなっ!』とか、『△△、そんなことで泣くんじゃない!』みたいにね。」
山本:「ホント、その通りですよね!(笑)」
教頭:「だから、先生方はどんどん遊ぶといいよね。」
山本:「でも、たまには職員室に戻って休んでもいいですよね。」
教頭:「そうだね。寂しいしね(笑)。」


休み時間をどう使うのか。
もちろん、いつも子どもと一緒にとはいかないでしょうし、一年の中での関わり方の軽重(徐々に子どもたちだけで遊べるように)もあるでしょう。
ただ、この時間をどう使うか(使っているか)というところに教師としての有り様が表れていると思います。
今日は少し意図的に休み時間を過ごしてみませんか?

追伸
最近はあまりにあちこちで暇だ暇だと言っていたら、休み時間に子どもたちが遊びに誘ってくれるようになりました。(笑)

(山本和彦)

2014年9月2日火曜日

やってみせ・・・

初任校の校長室に山本五十六氏の言葉が掲げてありました。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
以来30年、できるだけ生徒には「やってみせ」てきたつもりです。以下の作文は、1学期の意見文指導でやってみせた作文です。

                    人生の主役をかっこよく演じよう

 先日、薬師寺の僧侶・大谷徹奘(てつじよう)氏のお話を拝聴する機会があった。話のうまさと中味の面白さに時を忘れ吸い込まれていった。40分の話が10分くらいに感じたほどだった。 そのお話の中で心に残った言葉がいくつもあった。特に、『面倒』という言葉。大谷氏は、学生時代の友達との話でわかりやすく教えてくださった。中学・高校と同じ教室で同じ先生に同じ時間だけ教わったはずなのに、返された数学のテストの点はというと、自分が9点、友達が100点だったという話だ。なぜ、同じ環境に置かれていたのに、こんなにも差が生まれたのか。大谷氏は考える。そしてそこではたと気づく。自分が心の中でいつも使っていた言葉があった。それが『面倒』という言葉だ。数学の時間、自分は面白くないのでいつも面(顔)を倒していた。ふと友達を見ると、目を輝かせて先生の話を聞いている。暫し愕然となる。こんな時、面倒くさがりは、やる気のある人を馬鹿にする。 「サイン・コサイン、あんなこと覚えたって社会に出たら何の役にも立たないのに、なに一生懸命やってんだよ。」しかし、その結果は、9点と100点。動かしようのない事実だ。このことから大谷氏は、

 「命を運ぶで 運命 
  その運転手は 自分」


という詩を創る。人生を面白くするのも自分。つまらなくするのも自分。私も、周りの人に楽しくしてもらったり、環境によって面白くなるものだと思っていた。しかし、大谷氏のお話を聞いて、それは間違いだと気づいた。
 私の前任校では、総合的な学習の時間に『ミュージカル』に取り組んでいた。毎年生徒全員で、キャスト・照明・音楽・舞台グループに分かれて約半年間取り組む。学校祭での発表に向けて、全校が一つにまとまって取り組む大切な行事である。当然キャストは脚光を浴び、達成感も半端ではない。感動して涙を流す生徒も多くいた。しかし、裏方はついぞライトを浴びることはない。常に舞台裏でキャストを輝かせることに全力を傾ける。完全なる縁の下の力持ちだ。ミュージカル上演の後、校長先生はこうおっしゃられた。
 「この舞台の主役は○○さん。でも、脇役の皆さんも裏方さんも、自分の人生ではみんな主役なんです。自分の人生の主人公は自分なのです。だから、かっこよく生きていってください。自分を磨いて、人のためにその力を使うのです。そして、男子は、主演男優賞女子は主演女優賞を受賞できるようにね。審査員は・・・、もちろん神様です。」
 この言葉で、ぱっと心が明るくなった。私は誰かが目立っていたり、いい成績を取っていたりすると、心の中で、羨ましいなぁといつも思っていた。そして、なんて自分はちっぽけなんだろうと落ち込むことが多くあった。しかし、自分の人生の中では、自分が主役という言葉を聞いて、みるみるやる気が沸いてきた。どんなに隣の人が輝いていても私の人生にとってその人は脇役なのだ。私の人生を彩る一つの風景にすぎないのだ。だから僻むことも羨むこともなく、自分の人生の主役をかっこよく演じていけばいいのだ。全力で自分を磨いて高めていこう。同時に、隣の人の人生では、私は脇役。精一杯名脇役を演じていきたい。
 今回大谷氏のお話を聞いて、思い通りに行かない自分の人生を、面を上げて面白く生きていこうと思った。どんなことでも、捉え方を変えていけば、また明るい解釈をしていけば、面白い人生になる。かのランディ・バウシュ氏も言っている。「現実は変えられません。だから受け取り方を変えるのです。」私も人生の運転手として、自分の人生を精一杯楽しく面白く生きていこうと思う。


 尚、最近知ったのですが、「やってみせ・・・」には続きがあるそうです。

  話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。