2014年11月30日日曜日

大きく広く・・・

 その子は勉強が苦手なこともあり,クラスの中ではいつも助けてもらう存在だ。
 板書されたことを一生懸命ノートに書いたり,算数の問題を必死になって取り組んだりするのだが,自分の力で正解にたどりつけないことがよくある。
 そのため,隣の子や同じグループの人にしょっちゅう教えてもらっている。
 音読の指名をすると,漢字を読み間違ったり,つっかかったりするため,周りの子たちに教えてもらいながら,なんとか読み終えている。
 グループ活動でも,自分の考えで動くというよりも,周りの子に言われたことをやるという状況だ。
 クラスの中では,助けてもらう立場。それは,なかなか変わることはない。
 
 

 ある日,1年生の算数TTに入っている先生が,その子に頼みたいことがあると話しかけてきた。1年生にいる弟のことだ。
1年生の弟は,渡されたはずのプリントがずっと入ったままになっていて,保護者に見せていない。その子にちょっと見てほしいと頼んでみるから」
と。さらに・・・
「ついでに,道具箱にはさみとかのりとか入っていないし,算数セットのブロックも全然入っていないから,そのこともお願いしてみようと思う」
ということだった。
 数日すると,その先生がまた話しかけてきた。
1年生の弟のプリントすっかりなくなってたよ。はさみとかのりとかもそろってたし。やっぱり,頼んでみてよかった。弟に話してもなかなか・・・」
と。

 クラスでは助けられることが多いその子だが,お姉さんとしてしっかり弟の面倒を見ていた。
 そういえば・・・。毎朝,妹や弟のことをお世話しながら,学校に連れてきている。
 下校時に玄関で,
「お姉ちゃんもう帰っちゃった?」
と,妹がよく尋ねてくる。とても頼りにされているのだ。
 それだけではない。学校で行っている縦割り班清掃では,
「もう,○年生の,○○やだー」
と,言いながらも,掃除の仕方を教えたり,時には注意したりと,しっかり下級生の面倒を見ながら,掃除をしている。
 縦割り班での遊びや遠足のときも,遊びのやり方を優しく教えてあげたり,下級生の手をつなぎながら歩いたりしていた。
 

 クラスという狭い視点で見てみると,助けられることが多い存在。でも,学校全体という視点で見てみると,最高学年としての役割をちゃんと自覚して行動している,頼りになるお姉さんなのだ。
 勉強は苦手かもしれないが,こうやって下級生のお世話をしっかりできることも,とてもすてきなことだ。大きく広い視点で子どもを見ることで,その子のよさもさらに見えてくる。
(三浦 将大)

2014年11月19日水曜日

思考停止にならずに、可能性を探り続ける


当たり前過ぎて「どうして」とか「なぜ」ということを考えずに、こういうものだと子どもたちに教えてしまっていることは、私たちの日常生活にたくさんあるのではないでしょうか。決めつけたり、思考停止になったりすることなく、考え続けられることは大切な力だと思います。

前任校の校長先生が書道の大家でした。中学2年の短歌の単元と書写を関連付け、「色紙に自分のお気に入りの短歌を筆で書こう」という授業をした時、いくつかモデルとなる短歌を半紙に書いてくださりました。それを授業で子どもたちに提示すると、一枚一枚の美しさに見惚れながら、少しでもそのモデルに近づけるようにと試行錯誤する姿が見られました。良いモデルは子どもたちのモチベーションと質の向上につながります。その書は、転勤した今でもとても大切にしています。

先日、久しぶりにその半紙を授業で使おうと取り出してみて、あることに気がつきました。半紙のザラザラした面に書いてある、ということです。書写の授業で半紙を用いる際、「ツルツルしている方が表です」と教えています。子どもたちも小学校からそのように教わってきているのか、当たり前のように「こっちが表」と半紙を使います。それなのに、書道の大家はザラザラの面を使っている。これは一体どういうことでしょう。

今週、札幌で北海道の石狩・後志・空知管内の先生たちが集まる教育課程改善協議会が行われました。二日目は各教科に分かれて、改善のポイントを踏まえてレポート交流や演習です。たまたま同じグループになった先生の中に、書道を専門としている中学校国語の先生がいたので、この疑問を投げかけてみました。すると、その先生もザラザラの面で書きなさいと指導しているとか。ツルツルした面で書くのがいいというのは、高価な半紙であれば言えることのようで、私たちが授業で使っているような半紙はあまり高価なものではないことが多く、必ずしも表面で書くほうがいいとは言えないそうです。その先生の話によれば、ザラザラした面を使ったほうが筆の引っかかりがあり、書きやすいのだそうです。普段はあまり気にも止めないような「にじみ」や「かすれ」の話なども聞き、同じグループのほかの先生もこれまでの指導と異なる意見に驚いていました。

ザラザラした面で書いていようものなら、「あなた、間違っていますよ」「こうじゃなきゃいけないのですよ」と注意するくらい自明のことだと思っていたことも、実はそうでもないということを知りました。私も「知らない」ことがたくさんあります。知ったようでいて、実はもう一枚裏側があると思っているくらいがちょうどいいのかもしれません。(米田真琴)

2014年11月18日火曜日

仮構空間としての学級、そして授業~定時制高校の授業を参観して~

(2014/11/18)

先日、とある定時制高校の授業を参観する機会を得ました。

文部科学省の指定で、協同的な学習を位置づけた授業を構築しようという試みです。
フレームワークを論説文の読解に生かし、対比構造を抽出させようという授業でした。
単元の終末では、その対比構造をとらえた上で、筆者の主張を再構成させる作文を書かせるのがねらいです。十数名に満たない生徒たちは、それぞれに壮絶な背景を抱えているというお話を伺いました。

授業は順調に続き、相当高度な課題に見えた学習も、学力の高い生徒がリードしていくかたちで、いくつかのグループは作業を終え、発表までこぎ着けることができました。出で立ちは、まぁ、派手な生徒さんもいましたが、担任の先生の柔らかな声がけに応えて授業に参加していました。
「思っていたよりも普通の授業だなぁ。」
そう思いながら、この協同学習のありようをどのように言葉にするべきかをぼんやりと考えているうちに授業の時間が終わりました。

担任の先生の挨拶で、授業を終えた瞬間、私は自分の認識が甘かったことを実感しました。
刺さるのです。視線が。
先ほどまで穏やかに言葉を掛け合っていたように見え、そして参観している私たちのことなど気にもかけないような態度で学習に向かっていたようだった生徒さんたちが、授業が終わった瞬間に凍るような視線を周囲に走らせていたのです。

さきほど「壮絶な背景」と言いましたが、まさしく、普通の小学校で普通の教員をしている自分が出会うことはおそらくほとんど無いであろう過酷な生活を背景に持つ子どもの目。

その中での「協同的な学び」とは一体何か。授業とは何か。学校とは何か。

小学校で荒れている学級を見ることは、私にもあります。授業が終わると耐えきれないように廊下にぞろぞろと出て行く子どもたちの雰囲気。体育館やグラウンドでようやく開放された顔を見せる子どもたち。

それとはちょうど逆でした。

私が見た教室では、授業の間は、担任の先生が目を配り、気を配り、心を配っている間だけ、たとえそれが幻想であっても、教室が安心できる場所。仮構された場所としての教室。
その中では一斉授業をただ聞いているだけの方がどれほど楽だろう。協同学習という、人と関わるなんてしんどい授業をなぜ受けなければならないのだろう。

「社会に出る前の最後の場所。」事後研で、授業をされた担任の先生は何度もおっしゃっていました。きれい事では済まない、ぎりぎりの判断や葛藤を経て、それでも安易に教材を簡単になどせず、知的存在としての生徒さんと接する先生の姿に、何か大きな宿題をもらって帰ってきたのでありました。

あ、ちなみに授業者の先生は私の授業を見に来て下さるということになりました。
楽しみです。とても。

(藤原友和)