2015年7月25日土曜日

3年のブランク


今年度、8年間も勤めた職場から異動しました。今までで一番長く勤めた学校でした。また、最後の3年間は、担任外を経験させていただいた学校でもあります。

 異動した先の学校では、担任になることができました。やってみたいことや試してみたいことがたくさんあった私にとって、担任に戻れた喜びとうれしさでいっぱいです。ところが、なんだか今までと違う感覚がそこにはありました。もちろん、私も5校目の異動ですので、新しい学校に慣れるまでには時間がかかることはわかっています。でも、なんというか、据わりが悪いというのか、言葉では表せない感覚があるのです。やってみたいこと、試したいことなんて満足にできません。それどころか、行事や校外学習に対する見通しがもてなかったり、相方や子どもたちへ連絡をし忘れたりというミスも目立ちます。なにより、自分の授業スピードやテンポ、言葉の感覚がしっくりこないなぁと感じるのです。「しっくりこない」という、また抽象的な言葉を使ってしまいましたが、本当に、どうしようもなく、こんな感じなのです。

目の前の子どもたち(学習者)がどのように考え、どんな風に動くのか、常に試行錯誤しながら日々進んでいくことが、この3年は圧倒的に少なくなっていたことと自分の力の無さを痛感してしまいました。

 

そんな中、全校研授業を終えた後、校長先生からこんな言葉をいただいたのです。

「以前の山口さんの学級づくりは、勢いでもっていくところが大きかったけど、今は、たくさんのことが見えているという感じだね。子どもたちを掌で遊ばせているというか…」

校長先生は10年前、同じ職場で同僚だった方。リップサービスではあるだろうけど、少しは10年前とは違う自分になれているようです。自覚がなかったこともあり、とてもありがたい言葉でした。

担任外の3年は「ブランク」でもあるけれど、新しい自分になるために必要な経験でもあったのかもしません。1学期は不安定な自分でしたが、2学期からは当たり前のことを当たり前にできるよう、謙虚な姿勢で子どもと自分に向き合っていこうと思います。

(山口 淳一)

 

2015年7月18日土曜日

Learning性を前提としたActive性ということ(2015/07/18)

1 ALを考える切り口を探す
AL(アクティブ・ラーニング)についていろいろと考えた。
これからさきの授業研究の中で、避けては通れないキーワードである。新しいものがやってきたととらえるのではなく、普通の授業の中に「ActiveLearning的なるもの」を発見していこうというのが、今のところの僕の戦略である。とはいえ、ファシグラとかアフォーダンスとか言ってる僕の「普通の授業」感は、あまりあてにならないから、もうちょっと違った視点はないかなと考えている。
その中で、「ALのActive性と、Learning性をそれぞれどのように考えていくのか」という着想をえた。
何かいい材料がないかなぁとぼんやりしてたら、研究仲間の鹿野哲子さんからヒントをもらった。
「でもさ、マクドできっちり働ける高校生は結局スタバでもイケる気がする。」
これは、FBの「ノート」に綴った駄文へのコメントである。

2 Active性とLearning性
...
なるほど。ぼくはちょっと立ち止まって考える。
言葉は道具だ。考える道具だ。
考えたことを、言葉として取り出すと、取り出されたそれを材料にしてまた考えることができる。
さて。
先ほどの「ポストフォーディズム」を材料にしてみよう。
マクドナルドのバイトはLearning性が高ければ、それでいけた。それだけでいけるように環境が整えられ、客も環境調整により、「教育」されていた。
スタバ店員は、それに加えてActive性まで求められる、ということだ。客の要求水準も高くなり、そしてそれは「変質(個性化・感性化)」を伴う高水準化だった。
 
3 二つに「順序」をあてはめてみる
(1) 「きっちり」の中身
哲子さんのコメントにある「きっちり」。これがポイントなのだろう。座学で身につけるべき内容は「きっちり」学び、その上でさらにActive性を発揮しなければならないところに、現在の複雑化した社会に生きる難しさがあるということだと思う。
マクドで「きっちり」働ける能力というのは、マニュアルに従うのではなく、マニュアルに定められた手順とその思想を正しく咀嚼し、行動に反映させられる能力であろう。そうではない状態を考えるとよりわかりやすい。例えば、ストローの包装紙を、口を付ける部分を残して渡すサービスである。数年前に堀さんがブログかFBかに、一度外した包装紙をわざわざもう一度被せているバイトをみて、マニュアルに縛られてその意味を理解しないことを嘆いていたことがあった。ストローに直接手を触れないままで、衛生的に渡すという目的を理解せずに、手で、飲み口のところをつまんだバイト学生は「きっちり」は働けていない。
(2) 順序とは何か
このように考えると、Active性というものは、精度の高いLearning性を前提としないと発揮されないと言える。言い方を変えよう。価値あるActive性というのは、確かなLearning性を前提としている。これは、極めて限定的にいえば、出力の価値を決めるのは、入力の質の高さといえる。例えばピースの又吉が芥川賞をとったことについて、池田修さんが「入力のないところに出力はない」と指摘し、又吉の読書体験の豊富さに言及していたが、そういうことだと思う。それから多賀さんと堀さんの共著における対談。あれもそうだ。対談というActiveなコミュニケーションをエンタテイメントにまでしているのは、それまでの恐るべき読書量と実践と、その分析とを確かに重ねているお二人の入力に、決定的な一般人との差がある。
ここまで考えたときに、これから先の数年の間に提案されるActiveLearningと称される実践群をみるための視点が得られる。
「そのActive性は、確かなLearning性を前提としているか」である。単元の計画の中に、そのような構造が位置付いているか。そこから授業をみることで、いろんなことが引き出せるのではないだろうか。こういう仮説を得た。
(3) それは一方向ではない
前節までを書いて、Learning→Activeという一方向でのみ考えては狭い。そう主張しているととられるのは本意ではない、ということに思い至った。
Learning→Active→Learningであろうが、Active→Learning→Activeであろうが、Activeの意味を内省することがLearningにつながり、Learningの成果をActiveに活用することでパフォーマンスが上げられるということを考えたときに、これは要するにサイクルの「どの期間」の問題なのかということに過ぎないのではないか、という気がしてきた。そうであるならば、これは、かつての「表現―理解」構図に回収される。それも、かなり矮小化されて。まぁ、それは行きすぎた議論である。「Learning性とActive性がどのように接続しているのか」という視点で考えていくことにしよう。
 
※ 宣伝(笑)
今年の教師力BRUSH-UPサマーセミナーのテーマは、「ActiveLearning×○○」である。この仮説でいけるかどうか、じっくり考える二日間にしようと思う。(藤原友和)

2015年7月14日火曜日

アイドルとクラシック



春に娘が幼稚園に入園しました。幼稚園の先生が細かいところまで見てくれることに感謝しています。小学生の保護者が幼稚園や保育園の先生のイメージを担任に投影していることを意識して、対応していかなければならないと感じています。

 先日、幼稚園の運動会がありました。観覧の仕方にも小学校との違いがありました。幼稚園では、演技でも競技でも子どもがいると引っ切り無しに手を振り、声をかけます。気が付いたら私も手を振りながらビデオ撮影していました。例えるなら、アイドルのコンサートに来たような感覚でした。

アイドルのコンサートと比べると、小学校の観覧の仕方は、クラシックコンサートに近いと思います。今まで保護者が手を振るのを見て、子どもの集中力が途切れないか心配していました。ただ、種類が違うコンサートに来ていると考えると今後受け入れることができそうです。

(加賀大介)

2015年7月2日木曜日

スピーチ原稿が生む思わぬ効果に驚く

 私は趣味が合唱・ピアノ演奏など音楽系のため、職場でも仲間内でもすっかり音楽教師扱いである。が、中学・高校教諭の免許は国語科である。音楽科の免許はもっていない。
 でも、国語教師として胸を張れるほどの勉強は……できていないかもしれない。
 未だに、拙い授業をするたびに気付かされることがたくさんある。

 今、職場で採用されている教科書では、3年生で初めて、話すこと・聞くことの単元としてスピーチメモ(教科書では『発表メモ』)を使って発表する活動が組まれている。これまではどの学年でも、スピーチメモのみを作らせてスピーチさせていた。メモであるから、話の流れに沿ってキーワードのみを書き出した物である。

 しかし昨年度に初めて、最初に「スピーチ原稿」をノートに書いてみることにした。話を一字一句、文字に起こすものである。スピーチ本番に、その通りに話せなくてもよいのだが、内容や表現を十分吟味してから本番を迎えさせたいと考えたからだ。
 始め・中・終わりの三段階を、それぞれ1時間ずつかけて書いた。スピーチ原稿が完成した後に、原稿を見ながらスピーチメモを作った。
 メモのみの場合より話しやすくなるのではないか、と意図していた。確かに子どもたちは淀みなく、余裕をもって話せるようになった。だが、思わぬ効果が他にあった。

 子どもたちがみんな、前を向いて、友達の方を見ながら話せるのである。もう、これから話すことが頭の中にイメージできているのだろう。むろん、原稿とちょっと違う展開もみられたが、伝えたいと思っていたことからぶれていないから、問題ない。視線を合わせて話せるぶん、聞き手への伝わり方が俄然よくなっている。

 来年には4年生となり、児童会の仕事を始める3年生の子どもたち。下級生の教室に行ったときに、今回の経験を生かしてくれたらいいなと願う。

 この授業の構想を共に考えて下さった研修部長さん、ありがとうございました。

(斎藤 佳太)