2015年9月16日水曜日

心のコップは上向きに

 私の尊敬する野口芳宏先生のお話にでてきた言葉である。

 「人は誰でも心にコップをもっている。『心のコップ』だ。心のコップを伏せていてはどんなに人がいい話をしても、心には何も入ってこない。しかし、心のコップが上向きなっていると、人の話がしっかり溜まり、どんどん自分の可能性が広がっていく。」とうお話だった。好意的な気持ちで聞く人と、生意気な気持ちで聞く人とでは、心への入方・溜まり方が全然違ってくるということだ。私自身、人の話を聞くことの難しさを痛しているだけに身にしみることばだった。
 
 「聞く」というともう一つ、尼僧である青山俊董氏のことばが思い出される。氏は、くことには、三つの心得が大切だといわれた。

  一つ、初めてのこととして聞くべし。
  一つ、自分のこととして聞くべし。
  一つ、今生、最期のこととして聞くべし。

 三つの心得を聞いてハッとして、すぐにメモした。

 私なんかは、初めて聞くときには感動して一生懸命聞くけれど、大方こぼれ落ちてしう。後で、「今日はどんな話だつた?」と聞かれると、いい話だったよということぐらは言えるけれど、その後が続かない。肝心なところはどこかへ行ってしまい、面白い例話は思い出すという、そんな聞き方しか出来ない。そのくせ、二度目に同じ話を聞くと前に聞いたという思いだけは出てきて、初めて聞くという新鮮な気持ちがどこかへ行っしまう。私はそんな聞き方しかできない。「大事なことは耳鳴りがするほど聞け」といことばを聞いたことがある。「初めてのこととして聞け」というのは、繰り返し聞きならも、しかも毎回初めて聞く思いで聞け、ということだろう。

 先日、学校に警察官が講師として来られた。生徒に薬物乱用防止の話をされた後、校室での会話。「車上荒らし遭われた人が必ず言う言葉があるんですよ。・・・『私だけはわないと思っていたのに』とおっしゃるのです。」あっ、これはまさに俺だ。心のどこに他人事だという思いがあって、平気で車中に鞄を置く。自分事として聞けない。またいい話を聞いても「あいつ、耳が痛いだろうな。」と小言の材料としか聞けない。「私耳が痛い。」と自分のこととして聞かなければいけないということだろう。

 「人間が確実に生きていることができる時間は、5秒間です。」と言われたのは、医である日野原重明氏だ。「今、心筋梗塞になっても5秒間は生きている。でも、5秒後生きている保証は誰にもありません。」無常の命、明日どころか、5秒後の命も約束さていない。今日終わりが来るかもしれない。迎えが来るかもしれない。私なんかは「またとよく思うけれど、「また」という日はない。常に今生最期、この姿勢で聞け、というとだろう。
 この三つの心得は心に深く刻まれている。かといって実践まではほど遠いが、折あるとに思い出し、姿勢を正しているところです。
(小林 智)

2015年9月15日火曜日

すべてに感謝を!

  1年間、育児休暇を取得し、日々我が子と向き合っています。その中で、改めて気が付いたことは、すべてが当たり前ではないということです。できていたことが思い通りに進まない。例えば…時間を守る・トイレに行ける・家事など。

時間を守って行動しようとするが、行く直前になっておむつ替えということはよくあること。なかなか予定通りの時間運びとならない。さらに、車に乗りたくない、もっと遊びたいという子どもの気持ち。予定通りに実行しようとすれば数時間前から先を見通し、準備をしていくことが必要となる。それでも予定通りに行かない…。

 トイレに行こうと思うが子どもが2人いると行けないトイレがある。例えばコンビニのトイレ。それだけではない、男性トイレには子どもを座らせておく置くスペースやおむつ替えシートがないなどはよくあること。こちらもどこにどんなトイレがあるか考えておかなければならない。

 毎日終わることのない食事の準備・掃除・洗濯。誰かやってくれるではなく自分がやらなければなら終わっていかない。

 いずれにしても自分が育児休暇を取得しなければ、ここまで強く意識することはなかったように思う。すべて当たり前ではなく、やってもらっていたのだ。男性が育児休暇を取得したといえば、「素敵!」「すごい!」と言われるが、育児休暇を取得した女性は、「素敵!」「すごい!」と言われることは、ほぼない。そのことを考えると、自分が言われることに申し訳なさを感じる。この1年はすべて(妻はもちろん!)に感謝し、育児について・学校現場について、当たり前だと考えていたことを見直す1年にしたい。
(木下 尊徳)

2015年9月8日火曜日

信じるということ

 勤務校の修学旅行が終わりました。 行事の前から、言われた通りにいわゆる「いい子」で過ごす子どもたちで、担任としては楽な反面、危うさも感じていました。よく言えば「空気を読んでいる」のでしょうが、どうしても「無理をしている」ようにしか見えなかったのです。

 ところが、修学旅行が目前に迫った頃、6年生どうしのトラブルが立て続けに起こりました。こんなこと、私が知る限りありません。些細なことが原因でのケンカではありましたが、確かにトラブルでした。 一見、ダメだろうと思われることですが、私にとっては、やっと辿り着いた地点です。

 「いい子」であることだけを意識していた子どもたちが、行事前に落ち着かなくなったんです。やっと、自分の感情を抑え過ぎずに動けるようになりました。自分の辛さよりも「いい子」でいることを優先してきた子たちが、です。 1年半かけて、やっと、「教室は自由である」ということが伝わり始めていると実感できた出来事でした。

  「背中で見せる最高学年であれ!」「教室は自由である」と言い続けてきた半年でした。「先生は、あなたたちを無条件に心から信頼している」とも。 そして、「外で頑張っている分、教室では頑張る必要はないんだよ」とも。 昨年度は「頑張っています!」アピールの大きな子どもたちでした。一転して、今年度は「頑張っている姿」を私には一切見せてくれません。私は、同僚から褒めていただくことで知ることばかりです。 でも、それでいいんじゃないかな、と思っています。

 頑張る姿を見られないのはさみしいことではありますが、私の「信じる」という言葉を、彼らが「信じていてくれる」ということなのだと思うことにしています。 何より、彼らが教室で見せてくれる、子どもらしい姿が大好きなんです、私。
(水戸 ちひろ)