2016年7月24日日曜日

私の転機

   人生にはいくつかの「転機」がある。もちろん教員生活にもそれはあるだろう。みなさんの転機はいつだろう。また、それはどんな体験だろう。私は今年、教員生活31年目に突入させていただいた。私の教員生活での転機はたくさんあったが、いつもふと思い出す体験がある。
                                                                                                                                        「小林先生でなければ話せないことを言ってほしいんだ。誰が言っても同じなら、言わないほうがいいんだよ。」

 旭川市立明星中学校に勤めて3年目、整列指導の係になった。なった、というよりさせられた。(整列指導係とは、朝会や集会などで全校生徒を整列させ、生徒に向けて生徒指導上のことなど何分か話す係のこと。明星中では、最低でも月に2回はそれがあった。)当時、生徒指導部長の上中先生(現在は旭川市立広陵中学校長)が言われた言葉だ。これには正直、相当悩んだ。気の弱い私は、朝会や整列指導がある前の晩は眠れなかった。ほんの1分程度話すのに、何時間も考えた。どう言ったら、生徒の心に残るのか。どう話したら、生徒は納得し、その言葉を受け止めてくれるのか・・・・・・。
                                                                                                                                 
  胃がキリキリした。腸が悲鳴をあげた。そしてたどり着いた結果は・・・・・・。何のことはない。自分の体験を本音で話すことだった。自分の体験は、自分以外の人には語れない。そして、自分が実際に経験しているから、そこには自然と実感がこもる。誰が話しても同じことは、聴く人の心に響き難い。「本音・実感・我がハート」(私がこよなく尊敬している、野口芳宏先生のことば)で語ることである。「いじめは相手を傷つけるからやめよう。」と言っても誰も聞かない。「実は自分はいじめられたことがある。その時はこんな気持ちになって・・・。」「今ではとても恥ずかしいことだが、私は人をいじめたことがある。その時はこんな気持ちで・・・。」と自分の体験を語ったとき、初めて人は『心のコップ』を上に向けるのではないか。(もちろん同じことを言っても、人の心にしみ込ませることができる人格者もいるが、私はとてもそんな域ではない。)
                                                             
 この体験以来、いつも自問している。「これは俺じゃなきゃ言えないことか?」そして、自分の経験を通しての発言を心掛けている。
 
 上中先生の言葉は今でも心に響いている。
                                                                                                                    
(小林 智)

2016年7月14日木曜日

1年生と絵の具との出会い

 11年ぶり2度目の、小学校1年生担任をしています。
 前回の手痛い失敗を生かしながら日々教壇に立っています……といいたいところですが、11年も経ってしまうと記憶はすっかり風化。
 当時の日記もなんだか当てにならず、初めて担任するような気持ちで1年生の子どもたちと向き合っています。

 6月下旬。運動会も終わり、大きな行事もひと段落。
 その頃には小学校生活のリズムをつかみ、学習に打ち込みやすい時期になります。
 図工の時間には、そろそろ絵の具の指導を始めることになりました。

 じつは個人持ちの絵の具指導については、教科書では3年生から扱われています。
 1年生ではまだ、みんなで共用の物しか扱いません。
 ですから、準備から片付けまで自分一人で行う個人持ち絵の具は、扱いがとても難しい道具といえそうです。
 とはいえ、使いこなせたら楽しいに違いありません。

 学年団3人で、指導の方法をいろいろと話し合いました。
 教師力ブラッシュアップセミナーのメンバーである増澤友志さんのご実践も参考にしつつ、学年会議で計画を練りました。

・絵の具の扱いの習得に、4時間計画でのぞむ。
・点描2時間→線画2時間と、ねらいとする技能を絞る。
・ワークシート等にはできる限り頼らず、画用紙の上に思い思いに描くことで絵の具を使うことを楽しむ。

 担任団3人が知恵を絞り、図工担当の先生が以前にベテラン先生から学んだという実践(※さらに元となる原実践があるのかもしれません)を踏まえて考えました。



1,あしあと
 パレットに好きな色3つを出し、画用紙を森の中、点描を動物の足跡に見立てて画用紙上を歩かせます。筆の太さを変えることで、動物の種類も変わるということにしました。
 同じ大きさの点を打つことを目標にしました。
いつの間にか画用紙内に「ここは池!」「あそこの洞窟を目指すんだ!」と、森の中の世界が子どもたちの頭の中に描かれ始め、様々な動きが生まれました。






2,シャツ
 パレットに好きな色3つを出し、画用紙にしましま模様を描きます。太い筆から順に使い、変化のある線を描きました。後から端を切り取り、袖や襟、ポケットなどを作っていきました。
 始めに自分の好きな色をチョイスしていますので、お気に入りのシャツが自ずと出来上がりました。その喜びように担任も驚き、うれしくなりました。






 絵の具用の塗り絵も広く市販されているように、枠線を太くとって中を塗らせることで、ある程度の“きれいな絵”を仕上げる手立てを打つこともできます。また、今後行うであろう混色の指導時などは、何らかのワークシートがあったほうが、色の変化が視覚的に分かりやすくなると思います。しかし増澤さんの考察にある通り、1年生の絵の具指導では、ある程度の自由度をもって使わせることで、「自分で道具を扱い、自分で作品を仕上げることができた!」という満足感をもたせることも、大切ではないでしょうか。
 シャツ描きでは自分のしましま模様がシャツに化けていくという変化がとても楽しく感じられたようで、子どもたちは特に盛り上がっていました。
 授業のねらいによって、活動の枠の広さや手立ては柔軟に変えていきます。これは芸体系教科においても、どの学年においても、大切な教師の構えなのだと思います。ただ、はっきり言えることは、子どもたちは大人が思う以上に「できる」ことがあるということです。
(斎藤佳太)

2016年7月6日水曜日

世界観を広げる転勤

 この春転勤しました。5年ぶり、通算6校目の学校となります。教員生活25年目を迎える教員としては、わりと早いサイクルで異動している方と言えるでしょうか。
 今回の勤務校は私が教員に採用された年に開校した、比較的歴史の浅い学校です。地域的には新興住宅地で、保護者の階層も高い方です。ちょうど教職員の三分の一も入れ替わる大量異動の時期と重なり、転勤早々生徒指導主事と2学年副主任兼学級担任を務めることとなりました。転勤直後、2年生を受け持つことからスタートしたのも初めてならば、学力的にも経済的にも、これまでの勤務校にはないほどレベルの高い学校も初めてでした。とは言え、与えられた役割に「嫌だ、無理だ」などと拒否できるような年代でもなく、ある種の覚悟を持って、学級はもちろん学年・学校づくりに奔走しました。
 学担を受け持ちながら生徒指導部長というのもなかなかハードな役回りですが、生徒指導部に関しては同僚との業務分担や校務支援のシステム、生徒や保護者の平穏さなどに助けられ順調に進みました。ところが、肝心要の学級づくりに少しずつ綻びを感じ始めるようになりました。学級が崩壊している生徒指導部長なんて、なんの説得力も持ち得ません。そんなプレッシャーを知らす知らずのうちに感じていたのか、年度当初から生徒たちを型にはめようとしすぎた嫌いがあったのかもしれません。
 数名のやんちゃ生徒たちをうまくさばききれないなと感じたとき、仲間が書いた一冊の著書と出会いました。それは『アクティブ・ラーニング時代の教師像~「さきがけ」と「しんがり」の教育論』堀裕嗣×金大竜(小学館)です。この著書から私が得た新たな気づきを紹介します。

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【その1:金大竜さんの言葉から】
 幼い頃、父に言われたことがあります。
 「学ぶということは、目線が変わるということだよ。学ばない人は、そこがどこだかは分からない。自分が何者かも分からない。学ぶことで、少し目線が高くなる。すると、自分がいろいろな壁に囲まれていることを知る。もう少し、目線が高くなると、その壁はずっと遠くまで続いていることがわかる。そうして、学ぶことを続けていると、背中に羽がはえ、上空から全体を見渡し、自分が迷路の中にいたことがわかる。その時には、ゴールまでもが見渡せる。学ぶって、自分の視点を高くしていくことだよ」(p148)

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 自分がなぜこの言葉に心打たれたかというと、これまで他者よりたくさん学んでいるという自分の中での傲慢さが、いつしか目線を高くすることを阻んでいたということに気づかされたからです。自分は学んでいるようで大事なことは何一つ学んでない。例えば、これまでと違うタイプの生徒たちに出会った場合、自分の中の目線だけでしか考えず、生徒たちの思いを蔑ろにして対応しようとする。よって自分のやり方を見直せない。迷路の中にい続ける。ゴールなど見渡せる訳がない。堂々巡りの悪循環な訳です。
 それにしても、この言葉はとても素敵な言葉です。金さんが素敵な先生であることはこのお父さんの影響を受けていることが窺えます。私もこの言葉によって、目線を高く持ち、生徒たちに任せる部分は思い切って任せてみようと舵を切り始めました。
                                                 
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【その2:堀裕嗣さんの言葉から】
 人は見たいものしか見ないし、見ようとしているものしか見えないのです。つまり、見ている世界、見えている世界というのは、自分の「見たい」「見よう」という欲求や意志によって形づくられている、非常に狭いものにすぎないのです。だから、少しでも世界を認識しよう、少しでも世界に近づこうと思えば、自分の「見たい」「見よう」という欲求や意志の傾向を分析し、少しずつバイアスを認識し、取り除くべきバイアスと、きっと取り除いたほうが良いんだろうけどこれをなくしたらオレじゃなくなるよな……というような自分の根幹として愛着をもっているバイアスと、こうしたものを一つ一つ自分で咀嚼し消化していくことで、自分の「見たい」「見よう」を広げ深めていくしかないのです。僕はこうした機能を「世界観を広げる」と言っています。(p152)

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 転勤直後というのは、とかく前任校との違いを相対的に比較しがちです。多くの人にとって過去は美化されますので、前任校の方が優れているという結論に至りがちです。かくいう転勤6校目となる私も、この呪縛からは逃れられませんでした。ところが、堀さんの言葉を踏まえると、転勤とは世界観を広げるためのものであり、世界観を広げることにより認識が深まると言えます。そしてそれは永遠に完結するものではなく、その時々に変わり続けるものであるとも言えるでしょう。
 この著書のサブタイトルにもあるとおり、私も前任校で「さきがけ」型教師でした。学級はもちろん、学年主任としても先頭に立ってリーダーシップをとることを心がけていました。それがたまたまうまくいっていただけだとも気づかずに、「さきがけ」であることで満足していました。そして、新たな転勤先では生徒指導部長。学年主任ではなくても、「さきがけ」であることを期待されていると無意識に思い込み、必然的に学級づくりにも「さきがけ」型の指導をしていたことに気づかされました。それ以降、「しんがり」型として、できるだけ生徒に任せて後ろからフォローしてみようと覚悟を決めました。
 6月に行われた宿泊学習では生徒指導上いろいろとハプニングが起こったものの、自分の学級に関してはトラブルを起こすことなくまとまっている。決して大きくまとまるのではなく、まだまだ小さくまとまっているのですが……。ただそれを見て、「しんがり」型の指導をもう少し続けてみようと決心しました。もちろん、時と場によっては「さきがけ」型の指導が必要な場面もあるでしょうが、自分にはこれまで見えなかったし、自分からも見ようしなかった世界を、広く深く見渡したいと思えたからです。
 さて、1学期も残り3週間を切りました。3月の学級解体時にどのような成否が出るかは、今後の指導の如何にもよるでしょう。ただどのような結果が出ようとも、「しんがり」型を貫いて、その広がりや深まりを見渡したいと思っています。
                                      【山下 幸】

 〈追伸〉 今年のBRUSH-UPサマーセミナーには金さん・堀さんが講師として登壇します。ぜひご参加ください。

2016年7月1日金曜日

修学旅行の作文を「ビフォー」&「アフター」で書いてみました

 先日、修学旅行に行ってきました。振り返りに作文を書かせたいのですが、なかなか筆が進まない…という子どもの指導に苦労することもあります。そこで、私は「見通しを持たせる」ことで、作文を書きやすくできないか、と考えてみました。
 まず、修学旅行に行く前に、「予想作文(ウソ作文)」を書かせます。「予想作文」のねらいは次の3つです。

①作文に対する嫌悪感を取り除く。
②文章の構造(起承転結)を学ぶ。
③「転」での「ひねり」(展開)を学ぶ。


 ここで大切なのは、子ども達に、自分の「ウソ」で、どれだけ読み手を引きつけるかを考えさせることです。読み手を引きつけるには、出だしの工夫なども挙げられますが、ここではそこに目をつぶり、あえて「転」での、展開だけにしぼりました。書くことが「ウソ」だけに、「転」では、大幅に話を広げられるし、あっと言わせる仕掛けを考えて書ける、という「予想作文」最大のメリットをいかしてみようということです。
 小樽での自主研修の計画を立てた時点で、子ども達に作文を書くことを伝えます。書く前に、自分の作文をどんな話にするのか、次の4つの中から選ぶよう、指示しました。

ア.おもしろい話  イ.かわいそうな話
ウ.おそろしい話  エ.感動する話


 さらに、条件を設けます。それは、既習の言語技術を使用することです。

比喩、擬人法、体言(名詞)止めの中から、1つは必ずどこかで使うこと

 この条件設定により、作品評価の曖昧さを少しでも減らすことができるかなと考えたからです。
 子ども達は、最初こそ戸惑いますが、ウソを書いていい、という安心感やおもしろさなどから、嬉々として取り組みました(ただし、ウソはウソでも、実際にありえそうなウソ、ということにしてみました)。ヴェネツィアガラス美術館で展示物を壊してしまう話、お小遣いを落としてしまったけど、優しい観光客に助けてもらう話、お寿司屋さんにインタビューをしたら、礼儀を褒められてトロをごちそうになった話等々、みんなで楽しく読み、一言コメントを付け合いました。

 その後、実際に修学旅行へ行った後に、また作文を書かせるのです(「アフター作文」)。手順は、「予想作文」の時と同じですが、今度は「予想作文」ではないので、ウソは書けません。しかし、子ども達には「予想作文」で獲得したものがあるので、嫌がりもせず、書き出しもスムーズでしたし、表現も工夫されていました(1コマ45分で書ききれなかったのは、2名)。なんといっても、読み手を意識した作文になりました。「アフター作文」の内容は、もちろん「予想作文(ウソ作文)」と違うもので構いません。大切なのは、生活文の書き方が、技術として身についたか、ということです。

 日常というのは、それほど事件性やドラマ性があることばかりではありません。それだけに、日常を生き生きと描写できる国語的な技術を獲得することは大きいことです。「予想作文」は、ウソを書くとは言いながらも、実は、事実を想定したシミュレーション作文となっています。子ども達は、実際にはどんなことが起こりうるのか、真剣に考えていました。この作業こそ、「見通しを持たせる」ことにつながっていたのではないかと思います。そして、「見通しを持たせる」ことの良さが、実際の作文に生かされたのではないかと思うのです。  【山口淳一】