2018年2月12日月曜日

当たり前を疑ってみる

新学習指導要領の本格実施が迫る昨今ですが、私の最近の問題意識は少し違う方へ向いています。
子どもたちと日々かかわる中で、人間とは、集団とは、社会とは……といった、人間そのものについての疑問が尽きません。
就職してから本当に長い間、学校に、学級に子どもが来るのは当たり前のことと考えていました。
でも、学校や学級って、何のためにあるのだろう。どうしてこのような制度が出来たのだろう……昨年のウィンターセミナーで、東北の佐々木潤先生のお話を聞きながら、考えの大前提となっていた部分がゆらぎ始めました。セミナー後に買った『〈学級〉の歴史学 自明視された空間を疑う』(柳治夫著、集英社)を読んで以来、さらにモヤモヤしています。

最近、友人の薦めがあり、『サル化する人間社会』(山極寿一著、集英社インターナショナル)という本を読みました。山極氏は類人猿の研究を行う理学博士です。本書では、野生のゴリラやサルを追跡して行ったこれまでの研究をもとに、人間社会の進化の過程について考察しています。
同じ類人猿といえど、ゴリラとサルは、仲間同士の関係性が大きく違うのだそうです。サルは完全な序列社会。強者と弱者の序列がある群れの中で生き抜くための習性が備わっているそうです。対してゴリラには「勝ち負け」という概念がないそうです。互いの目を見て理解し合い、オス同士も、群れのボスとメスや子どもゴリラとも、仲良くしながら共存するのだとか。時には食べ物を分け合うこともあるというゴリラの群れは、人間の家族の姿を連想させます。

翻って現代の人間はどうでしょう。
多忙化、おひとりさまの増加、ネット通販の発達、コンビニの充実などにより、家族が個々バラバラに食事をする風景が当たり前になりつつあります。
山極氏は、私たち人間の「家族」という集団は、元々は「食事をともにするものたち(p156)」として発生したと考えています。家族に帰属することで、食事という生存にかかわることを保障されたわけです。
しかし、現代は……。

集団への帰属がもつ意義が薄くなっているとしたら、昨今「やってもらって・よくしてもらって当たり前」の風潮がますます強くなっているのもうなずけます。飛躍があるかもしれませんが、私は本書から現代社会をみるヒントを得たと思っています。

おそらく、学校・学級という集団もまた、その存在意義が問い直される時代に入っているのでしょう。
(斎藤佳太)

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